SSブログ

国民投票に清き一票を

結局あの内閣不信任案の騒動は一体なんだったのか。
国民不在の政局争いは、むしろ政治の膠着状態を招いたに過ぎず、うがった見方をするならば、あのタイミングで政局劇を起こさなければならない、何か他の理由があったということなのだろうか。
それほどに、内閣不信任案を巡る顛末は、全くと言っていいほど、無意味で生産性のない出来事だった。
未だに続く、不毛な政治の駆け引きを見るにつけ、本気で震災対策と原発問題を取り組もうという政治家は、果たしているのだろうか?
そんな最中、イタリアでは国民投票が行われ、大差で原発反対の民意が示された。

原発凍結賛成は94% イタリア国民投票、開票終わる
原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は14日朝までに開票がすべて終了し、原発反対派の票が9割以上を占めて圧勝した。東京電力福島第一原発事故後に欧州で広がる反原発世論の強さが示された。 イタリア内務省によると、在外投票分も含めて開票が全て終わり、原発凍結賛成票が94.05%を占めた。凍結反対票は5.95%。投票率は54.79%に達した。 原発再開を模索していたベルルスコーニ首相は13日夜、「政府と議会は結果を歓迎する義務がある。高い投票率は、自分たちの未来に関する決断に参加したいというイタリア国民の意思の表れで、無視できない」とする声明を発表。「国民投票は複雑な問題を扱うには適さないと信じてはいるが、それでも国民の意思は明らかになった」とし、原発の新設や再稼働を当面断念する意向を表明した。
2011年6月15日(朝日新聞)
イタリアといえば、ヨーロッパの中でも日本との共通点が見出しやすい国の一つだ。
食文化、芸術、ファッション、スポーツ、歴史等々、世界的注目を集める独自の文化を持っている一方で、政治腐敗、失業、さらには多額の借金を抱える、いわばトンデモ(なんたってベルルスコーニ首相だもの)国家でもある。
にも関わらず、ヨーロッパを代表する国として、その地位が揺らぐこともなく、イタリア国民の暮らし振りぶりも至って陽気な印象しかない。
一方の日本も、世界に注目される独自文化を持ちながら、政治は停滞し、未だ不況真っ只中の借金大国だ。
その他にも、風土やかつてファシズムを生んだ近代史(旧同盟国でもあった)を持つなど、日本とイタリアは結構似た者同士の国と言える。
ただし、自殺率だけは大きく異なっている。
例えば、一人当たりのGDPや失業率は日本よりイタリアの方が低いのに、自殺率を見ると、なんと日本はイタリアの実に4倍もの数字となっている。

GDP(国民一人当たり)失業率自殺率(10万人当たり)
イタリア34,860.72㌦8.4%6.3人
日本42,820.39㌦5.1%24.0人

日本の自殺の主な理由は、仕事や経済的事由と言われているが、イタリアの方が数字の上で生活が苦しいはずなのに、一体この差はどこから生まれてくるのだろうか。

そんな中、先日、原発の影響を受けて自ら命を絶った福島のある酪農家の報道がなされていた。
相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し
福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。
2011年6月14日(読売新聞)
なんとも痛ましいニュースではあるが、これをすべて原発が原因の如く単純化して、センセーショナルに伝えようとする報道には正直違和感を覚えた。
亡くなった方が経済的に追い込まれていたのだとすれば、即ちそれは原発の影響であろうと想像はできるのだが、それらが自殺の要因だったとしても、自殺をする本質的な原因はもっと別なところにあるはずなのだ。
それこそ、このニュースをイタリア人が見ていたら、なんと思うのだろうか。

で、何が言いたいのかというと、イタリア人は、例え政治腐敗や不況があろうとも、更には不条理なことが身の回りで起ころうとも、自殺を選択せず、その国で、その地で陽気に生きる術を持っているということだ。
そもそも、ヨーロッパの歴史とは、侵略の歴史だ。
国や権力者の都合によって、世の中がコロコロと変わり、民衆の土地や財産が奪われることも珍しくはなかった。
多くのヨーロッパの人々には、そういった混乱の中を暮らし、生き抜いてきた歴史と知恵によって生まれた人生観や社会概念がある。
今の日本から見れば、学ぶべき事が一杯あるように思えるのだが、いかがだろうか。
そして、そんなイタリア国民が、海の向こうで起きた原発事故を受けて、原発反対の意思を圧倒的多数で示して見せたのだ。
この意味の大きさを、我々日本人はもっと噛み締めなければならないと思う。

石原幹事長:「集団ヒステリー状態」と発言 原発見直しで
自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、東京電力福島第1原発事故を踏まえた原子力政策の見直しについて「あれだけ大きなアクシデントがあったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と述べた。代替エネルギー確保の観点から「脱原発」の難しさを指摘した発言だが、表現が不適切と批判される可能性がある。石原氏は原発再開を巡るイタリアの国民投票を念頭に「国民投票で9割が反原発(だったので)、やめようという簡単な問題ではない」とも述べた。
2011年6月14日(毎日新聞)
石原伸晃という政治家は、イタリアの民意をなんと心得ているのだろうか?
改まって言うことでもないが、民主主義を否定していることに、まるで気づいていない愚かな政治家だ。

それにしても、国民投票がある国はなんとも羨ましい。
一応日本もあるにはあるが、それは憲法改正のみで、その運用方法には多くの問題を孕んだままだ。
ただ、それとは別に、今の体たらくな政治情勢が続くのであれば、せめて重要法案だけでも、国民投票制にして、国民が直接的に国政に関わる機会を設けてはどうだろうか。

本来、議会制民主主義が機能していれば、そんな必要もないのだろうが、もはや政党政治の体をなさず、政治家がイス獲り合戦に明け暮れているようであれば、今の日本の政治にとって、政党も政治家も無用な存在でしかない。
そんな政治を続けていれば、政治に無知な政治家ばかりが増えていくのも当たり前の話で、逆に言うと国民も政治に対して無知に陥ってしまうということになる。
最近、やたらリーダーシップを求める声が多いのも、その影響だと当ブログでは考える次第だ。
それこそ国民主権とは程遠い話だ。

そもそも、今の日本の議会政治はイギリスをモデルとし、戦後、アメリカの手によってマイナーチェンジが図られたものだ。
ファシズムを生み出さないように、そして、アメリカの政治意向が反映しやすいように、ところどころで骨抜きにされた仕組みになっている。
つまりは、政治の意思決定のプロセスが不明瞭かつ責任の所在も曖昧で、大きな政治決断が出来にくい仕組みであると言える。
日本が混迷期に入ってから、政権交代が起きても尚、短命政権が続いているのも、議員内閣制の制度上の欠陥が招いている部分もあると考えられる。

長年日本の政治は、第一に多数党であることが是とされる政治が求められ、政治理念や政策提案よりも、多数派工作に長けた政治家が幅を利かせてきた。
その結果、多数党は、右から左まで、あらゆる政治思想を抱えることになり、有権者からしてみれば、政治選択の余地が無いままに、戦後から今に至るまで、日本の政治が続いてきたということになる。
景気も良く、社会に勢いがある時であれば、中身の無い政治でも国は動いていけたが今は違う。
いわゆる国難と言われ、政治そのものが機能していかなければ、国が動かない状態なのだ。
ならば、無能な政治家に代わって、国民が重要な政治課題に直接判断を下せば良い話ではないのか?

原発やエネルギー問題に直面しているのは国民そのものだ。
仮に国民が判断を誤るようなことがあれば、国民がそのツケを払えばいい。
その緊張感たるや、国民がより政治に関心を持ち、知恵を持つようになるきっかけになるはずだ。
少なくとも、政治家の失政のツケを国民が払うのは、もう勘弁願いたい。
一刻も早く、政策を決めて進んでいかなければいけない時に、政治家のイス獲り合戦に付き合っている暇なぞ無いのだ。
政治家の皆さんには、国民主権の意味を、今一度よく考えてみて欲しい。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。