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普通の女優であること・田中好子

先月末、女優にして元アイドル歌手でもあった田中好子さんの訃報に接し、なんともいえない喪失感に包まれた。
自分でも不思議に思ったのだが、特段、彼女に対して個人的な思い入れや強い印象持っていた訳ではないのに、なにか、こうぽっかりと心に穴が空いたような感覚に陥る自分がいて少々驚いたのだ。
思うに、近年は母親役が多かったそうだが、もしかすると、ある日突然に母親を失った疑似体験にも近い感覚だったのかもしれない。
身近で当たり前のことが、実は失ってみて、はじめてその存在に気づかされたということなのだろうか。

そんな彼女にとって、女優として認められるようになった作品が、井伏鱒二の原作を今村昌平監督が映画化した「黒い雨」だ。
広島に原爆が落とされた後に降った放射能を含んだ黒い雨を題材に、原爆によって人生が狂わされる一人の女性を描いたこの作品で、田中好子は主役を演じ、その年の日本の映画賞を総なめにして、女優としての地位を築くこととなった。
後に、田中好子自ら語ったところによると、今村監督は、この作品で田中好子を配役した理由を「普通」の人だからということで起用したのだとか。
女優を評するのに一見誉め言葉とは思えないこの「普通」という言葉だが、この映画にとって、原爆や戦争によって、ごく普通の日常が奪われていく様子を描くには、まさに「普通」の存在を放つことができる女優の演技があってこその、映画であったと言えるのではないだろうか。
その後、数多くの母親役を演ずるようになる彼女の「普通」であることの魅力を、今村監督はこの時既に見抜いて起用したということなのだろう。

今、福島で起きている原発事故は、まさに放射能によって、人々の日常が狂わされようとしており、田中好子が亡くなったことで、再び注目をされることになった「黒い雨」と、重なって見えるのは、単なる偶然なのだろうか。
更には、普通の母親のように常に身近な存在でいてくれる女優さんを失ったことは、原発事故で普通の日常を失ったことと通ずるようにも思える。
いずれも失ってみて初めて、普通であることが、いかに尊いことなのか、改めて気づかされた思いだ。
田中好子は、身内を早期の病で無くしていることから、生前は熱心に社会貢献活動を行っていたことが知られている。
また、葬儀の際には、死期を前にして東日本大震災の犠牲者を労わる肉声も届けられた。
彼女の放つ、普通であるという魅力は、華やかな世界に見を置きながら、常に弱者を思いやる彼女の尊い意志と行動によって、もたらされていたのかもしれない。
改めてご冥福をお祈りすると共に、我々に普通の暮らしが戻ってくることを、強く願わずにはいられない。

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